■ 定型パターン122019.1.6

 考えてみれば同じような環境に育ってもすばしっこい子もいれば、いわゆるおっとりしたのろまな子もいる。集団競技になじめない子や特に球技が苦手なんて子どももいる。
 個別の環境や課題を捉える、その様式には多様性があるように見えるし、運動スキル獲得の完成度にも違いがある。
 そういったことと身体的な個性(柔軟性や筋力、耐久性など)には相関があると思われ、さらにそこに定型パターンへの依存が関係しているのではないかと思われるのだが今のところはっきりとしたことは分からない。
 しかし、自他共に身体が硬い(柔軟性が乏しい)と認める健常成人についてはこれまでのところ定型パターンへの依存傾向を認めている。ただし、その固執性についてはさまざまだ。ヨガ教室に通っていたり、ジョギングに励んでいたりする人でも明確な定型パターンを認めるのだが、それが状況によってどの程度変化しているのかは分からない。

 はっきりしているように思えることは、歩行の分析で見てきたように、定型パターンは単一課題の遂行に関して考えるのであれば動作効率を低下させる要因であると考えるべきであり、熟練性は正中位志向の方向にあると考えざるをえない。

 ここで議論したいと思うのは日常活動の熟練性の基盤となっているはずのコア情報への焦点化がどこまで一般化できるのだろうかと言うことだ。

 例えばスキーやスケートをはじめて習い始めた人がいるとする。おそらく大部分の人たちはそこそこに、転ばずに滑ることができたというところで満足してしまうだろう。私には経験がないのだが、もし私が習い始めたとすれば、おそらくその辺のところで近くを滑る美人スキーヤーかスケイターに見とれて転びながら「ウィンタースポーツ」の醍醐味にひたっているという自己暗示を楽しむのが関の山だろう。

 日常活動の運動スキルにも同じことが言える。私はナイフとフォークを使いこなしてはいない。そんな席に出ると思うだけでぞっとする。
書道家の筆さばきにはうっとりしてしまう。
板前さんの包丁さばきや大工さん、植木屋さんの鋸使いには見入ってしまう。
一流の熟練者のようにはとても動けるわけがないのだが、その感覚を想像することでいかにもできているかのように(近づけたかのように)、まねをして楽しむことぐらいはできる。私の場合、時には治療場面でその感覚と治療対象者が課題遂行で受け止めているはずの抵抗感を比較していることもある。


 
 


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