■ 20 つづき2017.4.30

 本当か嘘か定かではないが(私は信じている)、アイヌの狩人が熊狩りで使うとてつもなく勇敢な方法の話を聞いたことがある。覆い被さるように襲いかかる熊の懐に自ら飛び込んで、鑓を地面に立てて待ち、熊が自分と鑓にのしかかって串刺しになるように仕向けるというものだ。これはスペインの闘牛で闘牛士が雄牛をけしかけ猛り狂って突っかかってくるのをぎりぎりのところでやり過ごす勇気や技と同じように、相手の動きを完全に読み切るからこそ出来ることだ。サッカーにしてもアイヌの狩猟や闘牛の例にしても定型的ではなく相手の動きに合わせて自在に反応できる身体能力があってこそ、その「読み」を生かすことが出来る。太古の狩猟において罠や追い込み方法、武器の使い方、あるいはその製造方法の伝承も重要であったろうが、もっとも重要なのは狩猟対象である動物の習性や運動パターンを知り尽くすことであったろう。」
人間が地球上のあらゆる環境にその生息域を広げて来た背景には並外れた適応能力があったはずで、その根幹的な要素の一つとして随意運動が考えられる。そして身体の柔軟性と自分が環境、課題対象と切り結ぶ際の相互作業関係に対する洞察の深まりによる運動技能の洗練がそれを裏付けたのだろう。
私はこれまで人間の運動能力の特殊性について語るに際して、身体の部分的対象化、主観と客観、『即自と対自』などといった使い慣れない用語を使ってきた。それはこのような関係を端的に言い表すすべが思いつかなかったからだ。
自分は環境や課題とどのように切り結んだのか、を思い出すことは、ただ単に環境や課題が自分にどのような感覚をもたらしたかを思い出すこととは異なる。
例えば地面に大きな石が転がっていたとして、それをどかさなければならないとする。しかし重くて動かなとして、単に重いという感想だけでは「この石は重い」という認識を得たに過ぎない。これに対して持ち上げようとしたが手を引っかけるところがなくて持ち上げることが出来なかった。あるいは転がそうとしたがどっしりしていて動きもしなかった。というような感想には自分と環境や課題対象との相互作用関係が含まれている。
そして当然、後者の感想には、手の引っかかりをちゃんと探したのか、あるいは押したりひっくり返したりするために下からすくい上げるときの方向をいろいろ確かめたのかというような、新しい課題がつながるはずだ。
後者の感想が生まれてくるためには、その石を見つめる認識の深さと拡がりが必要であると共に、切り結ぶ相互作用のバリエーションが必要だ。たとえば四つ脚動物がこの課題に関わるとしたら前脚で引っ掻くか鼻先で押すぐらいの選択肢しかないだろうが、人間には柔軟でいろいろな方向に向きを変えることが出来る肩甲帯上肢と体幹がある。
そしてこのようなことは、自分と環境、課題との相互作用関係を主観的にではなく、より客観的に第3者の視点から見つめることへとつながったはずであり、対象認識の深まりは分節言語獲得の下地となりえたであろうと考えている。さらに自身を客観視することは当然身体活動においても分節的な認識に発展し得たはずだ。


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